真似事はするな!

2002/03/10

 世の中には〜〜流などと言う麻雀の流儀があるが、(大作流もだが・・・)その〜〜流という名前が語りたいだけの人間が大勢いるように思う。誰かの打ち方に憧れて、全く同じ打ち方がしたいというのなら話は別だが、私の知っている大方の人間は〜〜流という名前だけ名乗って満足している連中が多すぎるように思える。ただ単に第一打に字牌は切るなという教えがあるから、第一打に字牌は切りませんなどと言う人間はどうかと思う。それなりに意味を理解してから実行してもらいたいものだ。麻雀とは答えが一つしかないゲームではない。だからその意味を理解していなければ機械のようにしか麻雀が出来ないのだ。教えられた通りに打つ。それでは機械がやっているのと全く同じである。それでもいいんだという人間はそれでいい。そういう人間はここから先は読まなくていい。

 私は麻雀をするなら、自分の麻雀を確立していきたいと思っている。だから、どんなに麻雀のうまい人間が、「それは違う。こうするんだ。」と言ってきても、それが納得出来なければ、受け入れるつもりは全くない。しかし、納得した場合は喜んで受け入れる。そうやって、強くなっていくのが自分の麻雀を確立するという事に繋がると思っている。きっと最終的には全ての流派の総合的な打ち方というものが出来ると信じている。

 大作流麻雀では決して、私の言った通りの麻雀をしなければならないと勘違いしてほしくない。大作流麻雀は一種の選択肢、あるいは道具として使ってもらうのが理想である。こういう考え方があるんだ、と、思って読み進めていってくれると嬉しい。私から言わしてみれば、他の流派についても同じだ。一つの流派にとどまらず、全ての流派、または上級者から、自分の納得のいくものから吸収していってほしい。型にはまった麻雀ではなく、柔軟な麻雀、自分らしい麻雀をすることが私の考える理想の麻雀である。

 私の言う、真似事とは表面だけ真似して、本質の意味を理解していないことを言ってる。真似事ではむしろ、上達を阻む事だって考えられる。誰々みたいな打ち方をしたいと考えている人は、その自分の手本の人間の打ち方、打牌の意味を理解しながら自分に取入れて欲しい。うわべだけ真似しているようでは到底近づくことは出来ない。私と違って、誰々という人間の打ち方をしたいなら、その人間の打ち方を真似るのではなく、その人間の打ち方の意味を理解するのだ

一、流派は決められた道ではない。選択肢である。

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